武士道、切腹とイエス キリストの恥じある死

landscape beauty(This is the Japanese version of Bushido, Seppuku, and the Shameful Death of Jesus Christ.)

このポストは武士道とイエスシリーズの一つです。

訳注:文中の「恥」は、外部からの辱めによって受ける恥のみならず、失敗等によって本人が内面的に感じる恥も含みます。

拝啓、浩へ

今週の日曜日はイースターだ。イースターはクリスチャンにとって、一番大切な聖日であり、クリスチャンの歴史において最も重要な出来事が起こった日なんだ。そして実はこの出来事こそが僕の生き方を大きく変えることになった。どうして僕がそれほどまでにこの出来事から影響を受けたか、是非君に知って欲しくて、今日は手紙を書くことにした。

 僕と君は色々な面で似ていると思う。お互いにスポーツで正々堂々と戦うことを愛し、世界を変えたい野心に溢れ、こども達と妻を愛する思いは誰にも負けない。また、日本人の母を持ち、父親がいない人生をどのように生きるか学ばなければならなかった。僕の父親は亡くなり、君の父親は家族を捨てた。どちらの痛みのほうが大きかったかは分からないが、捨てられても粘り強く戦い続けた君を、僕は誇りに思う。君はその後日本の一流大学を卒業し、今はアメリカの投資銀行で働いている。本当に良くやったな!

  このように僕らはとても似ているけれど、二つの点で僕の人生は君のものと大きく異なっていると思う。一つ目は、僕がアメリカで産まれ育ったこと。そして二つ目は、僕が日本人の両親からキリスト教を学んだことだ。この二つの点の違いは、僕たちの間にある数多くの違いの骨格をなしていると思う。アメリカの事はまた今度話そう。今日はキリスト教について話したいんだ。

 クリスチャンがどれだけ日本で少ないかは君も知っているだろう。なぜ日本人のクリスチャンが数少ないか、そしてそれにもかかわらず、なぜ僕がクリスチャンになる機会を与えられたのか、僕はこのことについて何年もの間、自問自答し続けてきた。その結果一つ明確になったのは、僕は日本の文化を通してキリスト教の教えを解釈し伝えることに情熱と責任を感じているということだ。なかでも今日は、武士道とキリスト教の共通性について、君と話したい。

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Bamboo Forest in Japan by  Brian David Casey

     武士道は、日本人男子の行動規範を教えている。侍の時代は過ぎ去ったが、武士道の美徳は今でもなお生き続けている。しかし残念ながら、不屈の精神で武士道の道を歩む日本人男子は数少なくなったようだ。日本人とアメリカ人の根本的な違いは何なのかずっと探し続けてきた。そして自信を持って言えることは、日本人の魂ともいえる名誉への美徳と恥への強い抵抗心は、一般のアメリカ人には理解がする事がとても難しいということだ。日本人が重要視する点は、アメリカが非常に弱い点だと思う。

新渡戸稲造はこう書いた。

 「名誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教えこまれるサムライの特色をなすものであった... まことに廉恥心は人類の道徳意識の出発点だと私には思えるのである」。

 昨日君は、僕が成功して権力を持ち、皆から尊敬されたいか、と僕に尋ねた。僕は、YesとNo、と答えた。何故僕がそう言ったか分かるかい? Yesと言った理由は、もちろん僕もそれらを求めようという衝動に駆られるからだ。しかし一方で、Noと言った理由は、イエス・キリストが僕の恥と彼の名誉を交換してくれたことによって、僕は自由を手にすることができたからだ。

 自分たちが成し遂げた成功や、将来への野心を話すのは楽しい。しかし、僕たちの家族は?恥は?君が恥を持っているかどうかを聞こうとは思わない。なぜなら君自身ではコントロールできなかった出来事で恥を感じたこともあっただろうし、また自分自身で犯してしまった恥ずべき出来事もあったはずだと、僕は想像するからだ。僕も同じだ。いかにこれから先の成功を積み上げても、僕たちの持つ恥を取り消す事はできない。君も心の奥では分かっているだろう。

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     かつては切腹が一つの答えだったようだ。取り返しのつかないような大きな「恥」を抱えた時に切腹をした。現代の視点から見ると現実離れし、グロテスクとも言えるが、彼らがどのような気持ちで自らの命を絶ったかを想像すると奥深いものを感じる。新渡戸はこう書いている「切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった...武士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった」。恥は、最後には死をもたらす。彼らは僕たちが見たくない現実を目に見えるようにした。

 イエスは、まさにこの点で僕の全てを変えた。イエスは完璧な人生を歩み、何一つ悪い事をしなかったのにもかかわらず、恥を受け、恥深い死を選んだ。僕はイエスの死を究極の切腹と考えている。イエスは死を逃れられる事ができたのにもかかわらず、死を選んだ。これはソクラテスのそれにも近い、言わば、自殺の一種だった。

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イエスはなぜ死んだのか?

 僕、君、そして恥のある誰でも、恥の結果として死に至るのだ。認めるのは辛いが、切腹をしなければならないのはイエスでなく、僕だ。恥を持っているのは僕だからだ。僕が死ぬべきなのだ。しかし、イエスは僕を救いに来た。彼は世界中の恥を負い、十字架の死を遂げる勇気があった。新渡戸によれば、イエスは僕の罪を償い、過ちを詫び、不名誉からの逃げ道を作り、そして僕を彼の友達として救い出した。代わりに彼の名誉を僕に与えた。クリスチャンであるということは、こうゆうことなんだ。

 だから僕は自由なんだ。イエスは、誰も取り上げられることが出来ない彼の名前を僕に与えてくれた。だから僕は、自分の名誉を高めたり、守ることについて、常に固執しなくて良いのだ。イエスは過去、現在、そして将来の恥のために命を賭してくれたから、僕の恥がもたらす悪い結果は一切心配しなくて良いのだ。これはイエスにもっと恥を着せるのではなく、イエスに名誉をもたらすために、他人をもっと愛そうという意欲の高まりを与えてくれるのだ。

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 もっとこの事について君に話したいし、君の事も知りたい。でも、今日はここまでにしよう。僕たちクリスチャンは今日を「聖金曜日-Good Friday」と呼んでいる。それは恥あるイエスの死が恥の恐れから僕たちを解放されたからだ。日曜日にはイエスの復活、死と恥への勝利を祝う。今週末に一緒に祝える事を楽しみにしている、そしていつか君自身のために祝える事を祈っている。

敬具

スティーブ

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